五十四の花嫁 ―― “遅すぎる縁”などない、ある職人の物語
五十四歳になるまで、ついに一度も所帯を持たなかった男が、初めて花嫁を迎えるまで。中高年・晩婚の縁に「遅すぎる」はあるのか――そんな問いを、静かな一篇の物語に託してお届けします。
「その気がなかった」男
この男、名を沢井 実(さわい みのる)という。歳、五十四。話の都合上さきに言ってしまえば、この男は五十四歳になるまで、ついに一度も妻というものを持たなかった。持たなかった、というより、持つ機会がなかった、というのが正しいかもしれない。もっとも本人に言わせれば、機会がなかったのではなく、その気がなかったのだ、ということになるのだが、これはあとで触れる。
沢井は、姫路の在の、さして名も知られぬ町工場に生まれた。父は鉄工所の職人で、寡黙な男であった。この時代、というのは昭和の末から平成にかけてのことだが、この種の職人の家に生まれた男というのは、おおむね二十代のうちに身を固め、三十を過ぎれば子の一人二人はあるものと相場が決まっていた。ところが沢井だけは、その相場から外れた。
なぜ外れたか。理由は単純ではない。ただ、この男の性分として、物事を急がぬというところがあった。急がぬというより、あるいは、億劫であったのかもしれぬ。仕事は生真面目にこなした。鉄工所を継ぎ、取引先からの信も篤かった。だが、女というものに対しては、どこか及び腰であった。若いころに一度、縁談が持ち上がったことがある。相手は近在の商家の娘であったというが、沢井はこれを、これといった理由もなく、断った。断った当人がのちに述懐するところによれば、「あのころは、まだ自分の身の丈というものが分からなんだ」ということらしい。この言い方が、いかにもこの男らしい。
さて、話は一気に三十年ほど飛ぶ。
平成の終わりごろ、沢井の営む鉄工所は、時代の波にもまれて業態を変え、小さいながらも精密部品の加工を主とする会社になっていた。この間、沢井は独り身のまま働き続けた。友人は多からず、少なからずといったところで、休みの日には近所の川べりを歩き、たまに将棋を指す程度の、これという波乱もない日々であった。
余談だが、筆者はこうした男を何人か知っている。仕事一途で、身の回りのことには構わず、気がつけば五十を超えている。世間はこれを「変わり者」と片付けがちだが、当人にしてみれば、変わっているつもりは毛頭ない。ただ、目の前の仕事を片付けることに、いつも忙しかっただけなのである。
五十二歳の出会い
その沢井が、五十二の歳に、ある女と出会う。
女の名は、井上 千鶴(いのうえ ちづる)という。歳は四十九。こちらも、事情あって独り身を通してきた女であった。出会いは、といって特に劇的なものではない。沢井の会社が新しく取引を始めた資材店の帳場に、千鶴が座っていた。それだけのことである。ただ、この「それだけのこと」というのが、人の生涯を決めることがあるから、面白い。
千鶴という女は、物言いがはきはきしていて、沢井のような口の重い男とは、対照的な性分であった。もっとも、対照的であるがゆえに惹かれ合う、というのは、古来よくある話で、格別珍しいことでもない。ただ、沢井にとってこの女との付き合いは、これまでの人生のどの局面とも異なる感触を持っていた。
「沢井さん、あんた、いくつになったら嫁もらう気ぃ、あるんですか」
千鶴はある日、帳場でそう言った。冗談めかした口調であったが、目は笑っていなかった、と沢井はのちに語っている。この一言が、五十四年の間、どこかで凍りついていたこの男の何かを、溶かしたものらしい。
沢井は、その場でこそ答えなかった。答えなかったが、家に帰ってから、一晩、まんじりともせず考え込んだという。この男の生涯を通じて、これほど長く一つのことを考え続けた夜は、なかったのではないか。
無骨な求婚と、質素な婚儀
結局、沢井は千鶴に結婚を申し込んだ。申し込み方が、いかにもこの男らしく無骨であった。「わしと一緒になってくれ、とは言わん。ただ、この先の暮らしを、あんたと組んでやってみとうなった」。これが、沢井の言った言葉のすべてである。千鶴はこれを聞いて、しばらく黙っていたが、やがて頷いた。
婚儀は、ごく内輪で執り行われた。沢井の側には、老いた母と、工場の従業員が数名。千鶴の側には、姉夫婦と、幼なじみが二、三人。式そのものは、質素なものであった。だが、この式に列した誰もが、あとになって同じことを言っている。「あの日の沢井さんは、まるで別人のようであった」と。
ここで、沢井自身の心境に、いささか立ち入っておきたい。
沢井は、この婚儀の夜、床につく前に、独りで工場の裏手に出て、しばらく夜空を見上げていたという。何を考えていたか、これは想像するほかないが、筆者はこう思う。この男は、五十四年かけて築き上げてきた「独りで完結する人生」というものが、この日を境に崩れたことを、まざまざと感じていたのではないか。
崩れた、というと聞こえは悪いが、沢井にとってこれは、まぎれもない喜びであった。独りで生きてきた男が、独りでは決して得られなかったものを、この歳になって手にした。仕事において積み上げた信用、財産、あるいは近隣からの評判、そうしたものはすべて、沢井が独力で築いたものである。しかし、千鶴という一人の人間が自分の生活の中に入り込み、朝な夕なに言葉を交わす、その当たり前のことがもたらす充足は、これまで沢井が築いてきたどんな財よりも、大きなものであった。
遅く来た幸福ほど、深く重い
沢井は、のちにある知人に、こう漏らしている。
「わしは、五十四年生きてきて、初めて、生きとる、という実感を持った。仕事も金も、そらまあ大事なもんやが、それだけでは、わしという人間は、からっぽやったんやな。千鶴と一緒におって、飯を食う、それだけのことが、こないに嬉しいとは、思わなんだ」
この言葉には、飾りがない。飾りがないだけに、かえって重い。
人は、往々にして、若いうちに得られなかったものを、歳を経てから得ることがある。世間はこれを「遅すぎた」と評しがちだが、はたしてそうであろうか。沢井にとって、この結婚は、決して遅すぎたものではなかった。むしろ、五十四年という歳月をかけて、ようやくこの男の器に見合う分だけの幸福が、満ちてきたのだ、と見るべきではないか。
もっとも、沢井本人は、こうした大仰な言い方を好まぬ男である。当人に言わせれば、ただ「ええ女房をもろうた」というだけのことであろう。だが、この「ただそれだけのこと」の中に、五十四年分の人生の重みが詰まっているのを見逃してはなるまい。
その後の沢井夫婦の暮らしぶりについては、格別書き記すべき事件もない。ただ、工場の従業員の間では、沢井の口数が、以前より格段に増えたことが、もっぱらの評判になっているという。無口で通ってきた男が、妻を得てから、よく笑い、よく喋るようになった。これは、傍から見ていても、微笑ましい変化であったに違いない。
沢井実という男の生涯は、これといって歴史に名を残すような事跡があるわけではない。ただ、一介の職人が、五十四の歳になって、ようやく人生の真の値打ちというものを見出した、その一事だけは、書き留めておく値打ちがあろう、と筆者は思う。幸福というものは、必ずしも早く手にした者の勝ちではない。むしろ、遅く来た幸福ほど、その手にしたときの実感は、深く、重いものになる。沢井の生涯は、そのことを、静かに、しかし確かに、物語っている。
母の言葉
もう一つ、付け加えておきたいことがある。沢井の母は、この婚儀の少しあとに世を去った。老母は死の床で、息子の手を取り、こう言ったという。「実、お前が独りで死んでいくのやないか思うて、わしはずっと気がかりであった。それが、こうして片付いた。もう、思い残すことはない」。この言葉を聞いて、沢井は初めて、五十四年という歳月の重さを、母の側からも思い知ったそうである。人の親というものは、我が子の幸不幸を、自分のことより長く案じ続けるものらしい。沢井の結婚は、当人ひとりの喜びにとどまらず、こうして一人の老いた母の心をも、安んじたのであった。
この挿話を、筆者はことさら美談として書き記すつもりはない。ただ、遅く訪れた一つの縁が、当人だけでなく、その周囲の幾人かの人生をも、静かに照らし出すことがある。そのことを、沢井実という、さして名も知られぬ一人の職人の生涯から、汲み取っていただければ、それで十分である。